こんにちは!管理人のうさぎです。
今日の【徹子の部屋】のゲストは
『80歳の壁』の著者で“後悔しない老後”のヒントを提言している高齢者専門の精神科医の和田秀樹先生です。
今日の徹子の部屋では和田秀樹先生が「人は齢を取ればとるほど幸せになる」と提言され、後悔しない老後のヒントについて話をされます。楽しみですね。
そんな和田秀樹先生は東京大学を現役で合格された優秀な人材。
和田先生はどんな子供だったのでしょうか。生い立ちが気になります。ご実家の両親は和田秀樹先生とどのように関わっていたのでしょう。父親、母親はどんな人なのでしょうか。
和田秀樹先生のご家族は実弟や弟の子供、和田先生の2人の娘さんも東京大学を卒業されているエリート一家です。
それでは詳しく、深堀していきましょう。
和田秀樹(精神科医)のwikiプロフィールと経歴
引用:https://www.encourage.co.jp/executive
和田 秀樹(わだ ひでき)精神科医・高齢者医療専門医
1960年6月7日大阪府生まれ 64歳。東京大学医学部卒業。精神科医。東京大学医学部附属病院精神神経科助手、米国カール・メニンガー精神医学学校国際フェロー、高齢者専門の総合病院である浴風会病院の精神科を経て、現在、和田秀樹こころと体のクリニック院長。高齢者専門の精神科医として、30年以上にわたり高齢者医療の現場に携わっている。主な著書に『80歳の壁』(幻冬舎)など。
27歳のと きに執筆した『受験は要領』がベストセラーになり、緑鐵受験指導ゼミナー ル創業。無名校から多くの生徒を東京大学合格に導く。受験に関する著書多数あります。
この体験をもとに製作・監督した『受験のシンデレラ』はモナコ国際映画祭で最優秀作品賞(グランプリ)を受賞し、2016年にはN HKBSプレミアムドラマとしてリメイクをされている。
和田秀樹(精神科医)の生い立ちとエピソード
和田秀樹さんのwikiプロフィール・経歴を見ると非の打ち所がない優秀な方ということがわかります。
益々、和田秀樹さんの生い立ちが気になりますね。
早速見ていきましょう。
※引用:プロフェッショナル生きる力の育て方
和田秀樹さんは1960年6月7日生まれで大阪府出身です。
この時代は高度経済成長期と呼ばれて このころは急速に経済が成長し、東京オリンピックの開催や東海道新幹線が開通したのもこのころですね。
和田秀樹さんは幼い頃から利発で活発で目がぱっちりとしていて、周りの大人たちからもかわいがられた子供だった。子供の頃の和田秀樹さんは自信に満ち溢れていたそうす。
母親の意向で私立幼稚園に入園。大阪の公立小学校に入学時には、ひらがなカタカナ漢字一部が読み書き出来るようになっていたそうです。
小学校に上がった和田秀樹さんは、授業中に立ち歩きをするような子供だったようだった。これを知った母親は授業のレベルが低いせいだと即断し大阪市の名門公立小学校に1年生の2学期から越境入学させました。
お母さんの判断が早い。当初入学した公立の小学校は、レベルが低かったせいで和田秀樹さんが授業中、立ち歩いたと判断して即、和田秀樹さんのレベルに見合った有名公立小学校に越境入学させたようです。母親は息子の資質を良く理解していたのでしょうね。
しかし、息子の和田秀樹さんの資質をよく理解していても、一般的な母親は越境入学させるまで即行動できないです。そこが和田秀樹さんのお母さんの凄いところですね。
越境入学した名門公立小学校では和田秀樹さんは授業が楽しくて、授業中立ち歩くということはなかったそうです。
和田秀樹さんが小学校2年生時、父親の転勤で家族揃って東京都練馬区に転居。
東京の小学校では、ただ「大阪弁をしゃべる」という理由だけでクラスメイトが和田秀樹さんに給食を回してくれなかったり、ひどいいじめにあったそうです。
その時、母親は「周りと同化して東京弁を使う必要なんて一切ない」と激怒して、そのまま千葉県習志野市津田沼にあった父親の会社の社宅に引っ越しすることになりました。
ここでも母親の決断が早い!子供の和田秀樹さんは心強かったことでしょうね。
父が勤めていた会社を含め、3つほど大阪に本社がある会社の社宅が並んでいたそうで、そのため東京の近郊なのに大阪弁が飛び交う不思議な場所だった。
和田秀樹さんは新しい土地での生活に馴染んでいって、小学校ではガリ版の新聞を作る新聞部を作ったり、そろばん塾に通って1年で3級にまで進級したりしていました。
このときのそろばん塾での経験は、何よりもの自信になったと和田秀樹さんは言われています。
それまでは集中力がなくて授業中に立ち歩くような生徒だったのに、5桁×5桁もの暗算ができるようになったことは自信に繋がっていったということです。
小学校4年生の3学期ごろに、父親の転勤で兵庫県へ家族揃って転居。
千葉県習志野市津田沼の環境が良かったせいか自然と東京弁を話すようになっていた和田秀樹さん。
それが原因で、また兵庫の学校でもいじめにあいました。
そのときは転校という形ではなかった。当時は「実力主義で自分を評価してくれる環境の塾」が身近にあったため、学校でいじめられてもそこまで堪えなくてもよかったようです。
その後、和田秀樹さんは通っていた塾で1番になった。
私立トップ中学校である灘中学校に年間20人もの合格者を出す進学塾に移りました。和田秀樹さんがちょうど6年生の頃、住んでいた借家から社宅へまた引っ越しをすることになりました。
両親は優秀な息子が関西でも有名な公立の小学校へ通うための引っ越しだったようですが実際は、家から越境してその学校に行くことはできなかった。
結局、地元のガラの悪い小学校へ通うことになったそうです。そこの小学生が入学する中学校は、当時神戸市内で3本の指に入るほどの悪い学校だったそうで、「男子生徒が成績上位に入ると、必ず周りから袋だたきにされる」という話があったり、もうハチャメチャだったようです。
男である僕としては恐怖以外の何ものでもありません。灘中を受験することは以前から決めていたことではあったんですが、そのことは受験に対する大きなモチベーションになりました。その結果として、上位から5番の成績で合格することができたんです。
和田秀樹さんの資質が良かったこともありますが、東京大学へ現役で入学できる優秀な成績はお母さんの影響がものすごく大きかったようですね。
中学受験では5番の成績で合格しましたが、中学1年生の3学期には170番中120番まで落ちてしまったそう。
入学してから成績が上がった同級生はほとんどの親が東大卒や京都大学卒、医学部卒の人たちだった。逆に成績が落ちたのは親が高学歴ではなかったり、商店主の子供だったそうです。
和田秀樹さんは「中学受験は遺伝ではないが大学受験はやはり遺伝なのだ」と子供ごころに思ったそうです。そう思っていると勉強へのやる気をなくし、成績は低迷を続けてしまった。
和田秀樹さんは高校2年生の時に「赤い鳥逃げた?」を観て衝撃をうけ熱狂的な映画ファンになっていった。それまではなりたい職業がなかった和田秀樹さんでしたが、「映画監督」という夢を持つようになりました。
当時、自分でお金を作って自主映画を作るのがブーム。和田秀樹さんは映画を作るという道があることを知り、俄然(がぜん)そのお金が作れそうな医学部受験を目指すことになったそうだ。
驚きですね。和田秀樹さんは映画監督になりたいがために、東大の医学部を受験したなんて!!
このことを契機に東大受験に向けて勉強法を変えたり、いろいろな工夫を重ねることで劣等生を脱却して、東大の理科Ⅲ類に合格することができました。
和田秀樹さんは気が付いたそうで、親が受験で合格している人は、子供も受験で合格できる確率が高くなるのは、遺伝ではなくて「技術の伝承」なのだと。灘中学校が受験に強いのは、中学の勉強を1年で終わらせ、高校の勉強を4年かけてやり、最後の1年を志望校対策に専念できるからだ。
和田秀樹さんが頭脳明晰なのは疑問をそのままにせず、分析し答えを導きだしていく思考ができているからなのだと改めて感じました。
和田秀樹(精神科医)の両親どんな人?
和田秀樹さんが優秀な人材に育ったのは生い立ちから母親の影響が強かったようですね。
ご両親は子供の頃から利発な和田秀樹さんを自慢の息子に思っていたようです。
父親は関西の中堅クラスの私大の夜間部卒し、当時とても人気の会社だったカネボウの社員でした。
和田秀樹さんの父親は子供の教育には熱心ではなかったようですが、母親が子供の教育に熱心に行動すること事には反対はしなかった様子です。
実はひどい父親だった。マージャン狂いで借金をこさえる上、安月給の上、家のローンがあって、母親がパートに出たこともある。
引用:和田秀樹のオフィシャル
和田秀樹さんの父親はカネボウの社員であることに誇りをもっていたようですが、期待するほど出世ができなかったようです。
経営者の方針が、40歳以上昇給停止という、住宅ローンを抱え、子どもの教育費も本格的にかかる年代の社員にとっては、とんでもなくひどい経営方針を打ち立てられ、出世することができなかったのかもしれませんね。
母親の和田寿栄子さんは結婚してから専業主婦。
和田秀樹さんの生い立ちでわかるように母親の和田寿栄子さんは子供の教育にとても熱心です。子供たちに対してとても強い自信を持っていたそうです。
幼いころから「勉強しろ」と長男の和田秀樹さんと弟の和田雅樹さんは言われた記憶はほとんどないようです。
サラリーマンの父親と結婚して専業主婦になった母親は、長男の和田秀樹さんと弟の和田雅樹さんにさんざん言い聞かせていたのは『勉強しなさい』ではなく『自力で稼げるようになりなさい』でした。
実は母親の和田寿栄子さんの父親(祖父)は彫刻など芸術を志し、金もうけには疎かったそうで、母親は金銭的に苦労をされたのかもしれません。
そのために子供たちには「自力で稼げるように」と教育熱心になっていったようです。
和田秀樹(精神科医)の実弟の和田雅樹は東大卒のエリート官僚
長男である和田秀樹さんは昔から成績が良かったのに対して、次男の和田雅樹さんは学校の授業についていけないようなタイプの子どもだったようです。
そのため、父親は長男の秀樹さんと弟の雅樹さんを間違えた知り合いに「こいつは、勉強ができない方の子なんだ」という言い方をしていたりしていたんですが、母親はそういうことを口にすることは一切なかったと。弟の和田雅樹さんに対しても「この子もきっとできるようになる」と信じ続けていたんです。」
兄である和田秀樹さんも弟の東大受験のために、勉強法をアドバス。
勉強法を変えてからは、弟の和田雅樹さんは信じられないほど成績が伸びたそうで、最終的には学校始まって以来二人目の東大文I(法学部進学課程)現役合格を果たしたそうです。
弟のように、小さいころ「(勉強の)できない子」と言われていた子でも、高2まで普通の高校の中くらいの成績にいた人間でも、勉強法を変えれば、東大に受かることは可能ということです。
結果的に弟の和田雅樹さんは東大に現役で合格。弟の和田雅樹さんは現在、広島高等検察庁検事長として活躍されています。
また、弟の和田雅樹さんの子供も東大文科Ⅰ類から法学部を卒業されています。卒業された子供の職業は定かではありませんが、東大を卒業されているので、父親と同じ官僚関係の仕事についているかもしれませんね。
和田秀樹(精神科医)の娘2人は東大卒のエリート
和田秀樹さんの長女は、慶応義塾大学を卒業。東京大学の法科大学院へ入学し卒業。現在は司法試験に合格され、弁護士をされています。
大阪の地元の女子学院を卒業し、東京大学受験しましたが、6点足りず合格はできませんでした。
慶應で仮面浪人をさせるつもりだったが、前期がすべてAだったことから、それならわざわざ東大に入り直さなくても、4年で法科大学院に入ったほうがいいという父親の和田秀樹さん判断だった。
慶応義塾大学が優秀な成績で合格し慶応義塾大学へ入学。4年後、東京大学の法科大学院へ入学。卒業後は弁護士の道へ進みました。
和田秀樹さんの次女は東京大学理科Ⅱ類に入学されています。
桜蔭学園中学校高等学校を卒業、東大へは一浪されて合格されました。
父親の和田秀樹さんは娘2人の受験は、自身が忙しく受験指導ができていないと反省している様子です。
受験産業をやる身だから、現役合格にこだわらないといけないのだろうが、実は、忙しくて、自分の子の受験指導はきちんとできていない
それは反省すべきことだと思っている
引用:和田秀樹のオフィシャルブログ
東京大学の各学部・偏差値
東京大学の偏差値は72~76。
学部ごとの偏差値としては、
・文科一類の偏差値は75
・文科二類の偏差値は74
・文科三類の偏差値は74
・理科一類の偏差値は73
・理科二類の偏差値は72
・理科三類の偏差値は76
和田秀樹の生い立ち・両親・実弟と子供&娘2人は東大卒のエリート一家まとめ
1960年6月7日生まれ、出身地は大阪。
和田秀樹さんは幼い頃から利発で活発。目がぱっちりとしていて、周りの大人たちからもかわいがられた子供だった。子供の頃の和田秀樹さんは自信に満ち溢れていたそうす。
和田秀樹さんが小学生の時に父親の3度の転勤で、いじめられるが母親の機転の決断で和田秀樹さんは自信を失うことなく勉学に励むことができました。
・出身中学は灘中学校
・出身高校は灘高校
・出身大学は東京大学理科三類
両親については、
和田秀樹さんの父親は子供の教育には熱心ではなかったようですが、母親が子供の教育に熱心に行動すること事には反対はしなかった様子です。
母親の和田寿栄子さんは息子2人の教育にとても熱心。子供たちに対してとても強い自信を持っていた。「本当にできない子なんていない」という強い信念を持っている母親だった。『勉強しなさい』ではなく『自力で稼げるようになりなさい』と言われながら育ち。子供の自立の心が芽生えていった。
弟の和田雅樹さんは小さいころは「(勉強の)できない子」と言われていた子どもでしたが、兄の和田秀樹さんが考案した勉強法へ変えれば、東大に現役で合格。現在は広島高等検察庁検事長として活躍されています。
また、弟の子供も東京大学文科Ⅰ類から法学部を卒業している。
和田秀樹さんの娘2人について
長女は、慶応義塾大学を卒業。東京大学の法科大学院へ入学し卒業。現在は司法試験に合格され、弁護士をされています。
次女は、東京大学理科Ⅱ類に入学されています。
桜蔭学園中学校高等学校を卒業、東大へは一浪されて合格されました。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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