こんにちは!管理人のうさぎです!
2024年7月3日(水)
【徹子の部屋】へは33年ぶりの
出演となる浜村淳(はまむら じゅん)さんが登場します。
浜村淳さんは、89歳になった今も
現役で「ありがとう浜村淳です土曜日です」
MBSラジオの生放送が続いています。
初回の1974年4月の初回放送から
50年に渡り続けられたのは
結婚58年となる
嫁の池田茜(いけだ あかね)さんの
支えがあったからこそ続けられていると。
浜村淳さん妻の池田茜さんは
8歳年下で元タレント!
美しく魅力的な女性だったのでしょうね。
浜村淳(はまむら じゅん)さんは嫁の池田茜さんに
2度プロポーズされ、結婚へ。
妻の池田茜(いけだ あかね)さんは
外見の容姿だけでなく、
内面もとても明るい性格な女性で
どんな大変なことがあっても
浜村淳さんを明るく受け止めてくれていたようです。
素敵な奥さんですね。
浜村淳夫妻は映画鑑賞が共通の趣味。
浜村淳さんが
映画好きになったのは
浜村淳さんが幼少期に
実家の京都市北区の近くで度々、
映画の撮影現場を見に行ったことがはじまりのようですね。
その当時の時代劇大スター
喜劇王のエノケンこと榎本健一(えのもと けんいち)さんが
浜村淳さんの目前で演技する姿は
子供心をワクワクさせたことでしょう。
今日の徹子の部屋では
喜劇王の榎本健一(えのもと けんいち)さんの
秘話を浜村淳さんが語ってくれるそうです。
楽しみですね。
調査しましたのでご一緒にご覧ください。
浜村淳の生い立ちと実家
浜村淳さんは京都府京都市の出身。
1935年(昭和10年)1月10日生まれ
2024年7月現在89歳。
鉄鋼所会社へお勤めの父親と実母との間に生まれました。
父親が上海への転勤が命じられ、
乳飲み子の浜村淳さんを連れていくことができず
生後60日の浜村淳さんは
母親と別れて実母の姉夫婦に預けられた。
実母は乳飲み子のわが子と別れるのは辛かったでしょうね。
姉夫婦には子供がいないため、浜村淳さんをとても大事に育てられたそう。
浜村淳さんの本名は「塩浜 眞(しおはま まこと)」です。
「塩濱(しおはま)」の姓は姉夫婦の苗字です。
浜村淳さんが同志社大学受験のときまで
ご自分が養子である事実を知らずに育ったようです。
しかし、浜村淳さんは薄々は気づいてと語っていました。
浜村淳の実家の場所は京都市北区⁈
浜村淳(はまむら じゅん)さんの実家は
京都市北区にある鷹峯(たかがみね)。
若狭街道(わかさかいどう)の道が家の前に通っていて、
これを北へ100メートルも上った山道が、
東海道、中山道、甲州街道に繋がっている。
ここへ
度々、その当時の時代劇大スター、
・長谷川一夫(はせがわ かずお)、
・嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう)
・市川右太衛門(いちかわ うたえもん)
・エノケンこと榎本健一(えのもと けんいち)
・古川ロッパ(ふるかわ ろっぱ)
時代劇の撮影に来ていたそうです。
子供の浜村淳さんや周りの子供たち
目をキラキラさせて
見学していた様子が目に浮かびますね!!
映画館で撮影したシーンが映ると
子供だけじゃなく、大人たちも
誰々さんの家が映ってた、畑が映ってたと大喜び!!
そんな光景を見ているうちに
浜村淳さんは映画の面白さは自然に体に染みこんでいったそう。
知らず知らずのうちに映画が大好きになったようです。
浜村淳の映画の原点は実家の京都市北区に!
浜村淳さんが生まれ育った
京都市北区の鷹峯(たかがみね)には
時代劇の大スターが毎日、撮影をしていたので
浜村淳さんも他の子供たちに交じってワクワクしながら
当時の大スターを見に行っていたようですね。
浜村淳さんのお話によれば(2019年9月号サライインタビュー)
近所に新撰組の隊士を直に知っている
80過ぎのおばあさんが住んでいたようです。
凄いですね!!新撰組を直に知ってるなんて!!
さすが、京都ですね!!
そのおばあさんは子供たちが集まってくると
引用元:https://serai.jp/hobby/377971
浜村淳さんは子供の頃から
昭和の往年の大スターだけではなく、
歴史上の人物の新撰組の沖田総司の話まで
直に触れて育ったんですね!!
浜村淳さんは京都市北区鷹峯(きょうとしきたくたかがみね)の
実家で10代を過ごし
敗戦後は黒沢明監督の作品や外国映画にのめり込んでいきます。
浜村淳の司会・浜村節の原点とは⁈
浜村淳さんは地元の京都市立旭丘中学校、
京都府立山城高等学校を経て同支社大学へ進学。
同志社大時代では放送部に所属し、
当時はジャズ喫茶が盛んで
四条河原町で生バンドが演奏する「べラミ」という喫茶店があり、
そこで学生アルバイトとして
ジャズと映画の解説をしていくうちに
大阪、神戸のジャズ喫茶やラジオ局から
出演の依頼が舞い込むようになりました。
普通のアルバイトに比べ喋ってるだけで楽だったし、
特殊な仕事ということもあり収入も良かったこともあり
浜村淳さんはこの仕事を続けていこうと思っていましたが、
両親は「堅い仕事につくように」と反対される。
両親の意向に応え、
新聞社へ就職試験をうけるが最終試験で不合格に。
その後、靴下メーカーに入社。
浜村淳さんは宣伝部に所属される。
靴下のメーカーが
朝日放送制作によるラジオ番組のスポンサーだったことで
浜村淳さんは新入社員にも拘わらず、
番組の脚本を作成することになる。
この時に初めて
「浜村淳(はまむら じゅん)」の芸名を名乗ったそう。
仕事はきついうえに、
収入は半減、半年で根を上げて親に内緒に退職をし、
再び京都のジャズ喫茶「べラミ」司会業を再開した。
1958年、浜村淳さんが23歳の時に
ジャズ喫茶「べラミ」と提携してバンド演奏をしていた
渡辺プロダクションの社長、故渡辺晋氏と出会い
「東京においで」と誘われる。
その当時、大学卒の初任給が1万円の時代でしたが
渡辺プロダクションではその6倍の給料を出すと言われ
浜村淳さんは二つ返事で了承する。
渡辺プロダクションへ入社することを決め、
両親に芸能界での仕事がしたい旨を伝えると
それまで、反対していた両親も
「野垂れ死にする覚悟でやれ」と。
両親に応援の激を飛ばされ、浜村淳は上京。
渡辺氏の自宅に住み込み、本格的に東京で芸能活動を始めることになる。
その当時、ザ・ピーナッツの全盛期と重なり
渡辺プロダクションの渡辺社長の自宅で一緒に住んでいたそうです。
関西なまりの口調の浜村淳さんは
50年代の東京では、
言葉も文化も違う関西人の受けは良くなかったようで、
仕事のためにと思い言葉をあわせるのだが、
ニセの東京弁だとすぐにばれてしまった。
電波での出演はやはり厳しい状態があった。
そんな折、養父の体調が思わしくない知らせをうけて
渡辺プロダクションを退職し、
大阪でタレント活動をすることを決意。
その後は「吉本興業」「昭和プロダクション」
といった芸能事務所に所属。
吉本興業時代には、
吉本新喜劇など舞台に立つこともあったのだそう。
浜村淳さんは徐々に活躍の場を
映画評論・深夜のラジオ番組などにも広げます。
1974年、MBSラジオの冠番組「ありがとう浜村淳です」がスタート。
さらに、浜村淳さんは
和歌山大学の講師にも就任しており、
国立大学にとって芸能人初の講師となりました。
1994年には、追手門学院大学の講師も務めています。
浜村淳の司会「浜村節」は先輩の喋りを学んで自分で工夫
浜村淳さんには
特別な喋りを教わる先生はいらっしゃらなかったようですね。
引用元:https://serai.jp/hobby/377971
浜村淳さんは、
ラジオ番組を自分で録音して繰り返し聞いて勉強していたそうです。
淡谷のり子の司会を
された思い出は感慨深いものだったようです。
当時、淡谷のり子さんは
「別れのブルース」「雨のブルース」
ヒット曲を歌っていました。
浜村淳さんが、淡谷のり子さんの出番前に
楽屋をたずねすると
「別れのブルース」「雨のブルース」は
「最初にレコードにしたときに軍部に大変嫌われたのよ」
「このような頽廃的な歌は戦意を喪失させる!」って、淡谷のり子さん。
しかし、「戦場で戦っている兵隊さんたちを慰問に行くと
大いにうけて、歌を聴き覚えた兵隊さんが日本に帰国し流行させてくれた」と。
その淡谷のり子さんのエピソードを
「別れのブルース」のイントで
しっとりと語った浜村淳さん。
お客さんは身を乗り出して、
「雨のブルース」を聞き入っていました。
淡谷のり子さんはステージが終わった際に
大喜びで当時のお金で1000円をくれたそうです。
とても、
気分良く歌を歌うことができようですね。
今ではお馴染みの
演歌のイントロで名調子(七五調で曲を紹介)するのは
当たり前になっています。
これは浜村淳さん曰く
引用元::https://serai.jp/hobby/377971
この活弁の七五調を歌謡曲に
持ち込んだのは活動弁士の
西村小楽天(にしむら こらくてん)さんでした。
美空ひばりさんのお母さんが若い頃、
西村小楽天さんの大ファンだったようで、
美空ひばりさんが歌うようになると
「うちの娘の司会をやってもらえませんか」と。
西村小楽天(にしむら こらくてん)さんは最初
「歌謡曲の司会なんてやったことがない」💦💦
しかし
「歌謡曲にあの活弁の
七五調の取り入れたらどうだろうか」と考えた。
実際やってみると大好評だったので
それから歌謡曲、特に演歌は七五調でやることが
ひとつの形で出来上がったということです。
浜村淳さんもこれを継承しているということです。
浜村淳さんは先輩のラジオ放送を録音して何度も繰り返し見聞きして
独学で司会の勉強を行ってきたんですね。
名調子の「浜村節」の司会がこのようにして
誕生をしました。
MBSラジオ放送「ありがとう浜村淳です」
浜村淳さんがパーソナリティを務める
MBSラジオ放送の長寿番組「ありがとう浜村淳です」
(月~金曜8:00)
1974年4月にスタートしてから50年。
2024年3月29日に最終回を迎えました。
なんと!凄いですね!!
毎日、50年間、浜村淳さんの起床は朝4時半で
奥様は浜村淳さんより先に起きて
食事の準備と衣装を揃えてくれているようで
本当に素晴らしい奥様ですね!!
まさに、内助の功ですね。
浜村淳の実家は京都市北区!映画や司会のまとめ
浜村淳さんの実家の場所は
京都市北区鷹峯(きょうとしきたくたかがみね)
映画の原点は
浜村淳さんの実家の
京都市北区鷹峯(きょうとしきたくたかがみね)で
子供の頃から時代劇大スター
・長谷川一夫(はせがわ かずお)、
・嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう)
・市川右太衛門(いちかわ うたえもん)
・エノケンこと榎本健一(えのもと けんいち)
・古川ロッパ(ふるかわ ろっぱ)
撮影を目の当たりし、
公開映画では子供だけでなく大人も
歓声を上げ盛り上がり姿を見て育ったことが
浜村淳さんが映画を好きになった原点。
浜村淳さんの「浜村節」の司会の原点は
先輩の喋りを学んで自分で工夫。
相手にわかりやすく伝え、
感動して楽しんでもらうこと。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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