こんにちは!管理人のうさぎです!
人気アニメの「忍者ハットリくん」ハットリカンゾウ役で知られる声優の堀絢子(ほり じゅんこ)さんが11月18日に89歳老衰ため、お亡くなりになりました。心からご冥福をお祈りいたします。
堀絢子さんと言えば「忍者ハットリくん」「新お化けのQ太郎」「チンプイ」と長い間、主役を務められています。
他にも「ムーミン」「新ど根性ガエル」「マッハGoGoGo」「トムとジェリー」など多くのアニメのキャラクターの声優に出演。多くのアニメのキャラクターの声優に出演。
私は子供の頃からよく見ていたアニメばかりです。
テレビ番組では『快進撃TVうたえモン』・『笑っていいとも!』・『INsideOUT』や舞台『朝ちゃん』などの女優・タレントとしても活動。
『朝ちゃん』は反戦・紛争を訴える一人芝居を公演。30年余り250回を超えて公演をしています。
突然の声優・堀絢子さん89歳の訃報にとても感慨深い思いです。
89歳の堀絢子さんの声優人生を偲び、家族(父親・母親)や経歴、声優人生はどうだったのでしょうか。
なんと!忍者ハットリくんのお馴染みの「ニンニン」は堀絢子さんのアドリブだった?気になりますね。それではご一緒にご覧ください。
声優・堀絢子さんの父親は医者
堀絢子(ほり じゅんこ)さんの父親は山口県下関市で病院を開業し医者をしていたが1945年6月に軍医として招集されて、母親の故郷であった広島に配属されると最初はとても喜んでいたそうです。
しかし太平戦争の真っ只中、広島に原子爆弾の投下され父親は被爆してしまう。母親は父親の好物のゆで卵をもって駆け付けたがその時にはもう何も食べられない状態。
医者である父親は自分の状態が、危険な状態と察していたのでしょう。妻に今後の生活のことを申し伝えるために気力だけで生き続けていた。
家の経済状況や子供の教育、自分の死後についてすべてを話し終えると翌日、息を引き取りました。
堀絢子さんは幼かったので父親の記憶はほとんどないが母親が父親の最期のことを涙ながら何度も話すのを聞いて育ったため堀絢子さんは子供ながらに「生き残った私が何かしなければ」との思いをもって育ったそうだ。
父は最後まで私たち家族、子供や妻のことを考えてくれていた。
堀絢子さんの家族・母親
堀絢子さんは幼い時に父親が原爆に遭い被爆し40歳の若さで亡くなりました。
母親は父親の最期の話を幼い堀絢子さんに涙ながらに何度も話し子供をしっかりと育てなければいけないと強く思っていました。
堀絢子さんは子供のからずっと声優の高橋和枝さんに憧れていた。
高校生の時に「役者になりたい」と母親に告げたら
母親からは「何を考えてるの!」と凄く怒られ,正座させられた挙句のには往復ビンタ!だったそうです。
挙句の果てに母親から
「あんた、鏡見たことがないの? 女優っていうのは美しい人がなるものなの。しかも体も足も小さくて、そんな纏足みたいな足でよく立ってられるわね」とけなされましたが、私としては心の中で「そういうけど、一体誰が作ったんだっけ?」なんて思っていました。
引用:堀絢子の声優道
厳しいですね~。母親の考えがあってのことでしょうけどね。
母は私に父の跡を継がせたかったのか、大学も医学部か薬学部でなければ認めないと言ったんです。
堀絢子さんはそれでも役者の道を諦めきれずに児童劇団に高校生と時に入団する。母親には内緒にして隠れながら自分でアルバイトをして児童劇団の月謝も払っていたそうです。
堀絢子さんは理系学科がものすごく苦手だったようで、自分で貯めたお金を使って、青山大学の文学部に進学。
母からしてみれば、もう勘当ものですよ。
引用:堀絢子の声優道
家族は母方の伯父は東京国立博物館技官・共立女子大学教授・日本美術史家の奥平英雄、叔父に日本弦楽指導者協会理事・広島支部長であったバイオリン教師の奥平弘和、従兄に東京国立博物館技官・早稲田大学教授・日本美術史家の村重寧。
堀絢子さんの家族は父親は医者で母方は錚々たる役職や経歴のエリート一家なんです。
母親が医学関係しか認めないということもわかるような気がします。医学の道に行くことが子供の幸せと思い切っていたのかもしれません。
母親の支援を受けることができず、アルバイトして稼ぎ、自分が信じる声優の道へ突き進んでいった堀絢子さんの熱意は凄いと感嘆です。
声優・堀絢子さんの経歴
青山学院大学文学部英文科を卒業。土の会、劇団どらま座、フリーを経て、ぷろだくしょんバオバブ所属します。
堀絢子さんの最初の声の仕事はラジオ東京(現・TBSラジオ)の「マチネ劇場」という朗読劇。
その後、吹き替えやCMソングなど。
仕事を断らずにどんな仕事でも引き受けたことから「便利な役者」としてかわいがられていったそうです。
その甲斐あって、堀絢子さんは赤ちゃんから老婆役まで幅広く役をこなすことができる声優になりました。その中でも堀絢子さんは元気な少年役を得意としていたそうです。
藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)原作の作品にも数多く出演しており、「新お化けのQ太郎」「忍者ハットリくん」「チンプイ」の主役の声を演じました。
その他にも数えきれないほどのアニメキャラクターを声優しています。
やはり堀絢子さんの代表作品は、「新お化けのQ太郎」「忍者ハットリくん」「チンプイ」です。
「新お化けのQ太郎」
1971年9月01日放送開始
1972年12月27日放送終了
堀絢子さんは29歳~30歳の時「新お化けのQ太郎」の声優をしました。
オバケのQ太郎 の主題歌(堀絢子/ニューロイヤルの曲)メインヴォーカルは(2代目)Q太郎役の堀絢子さんが歌いました。
ごく普通の家庭に住み着いたオバケが引き起こす騒動を面白おかしく描いた藤子流生活ギャグ漫画の原点。
「忍者ハットリくん」
1981年から1987年にかけ、テレビ朝日系にてシンエイ動画によりテレビアニメ化された。
堀絢子さん39歳~45歳の時「忍者ハットリくん」声優をしました。
忍者の里、伊賀から忍術修行のため上京したハットリくんが、様々な騒動を巻き起こす物語。
「チンプイ」
1989年11月2日から1991年4月18日までシンエイ動画制作によりテレビ朝日系列にて放送された。
堀絢子さん47歳~49歳の時「チンプイ」の声優をしました。
ちなみに「チンプイ」は藤子・F・不二雄のSF生活ギャグ漫画、原作としたアニメ作品、および作中に登場する地球のネズミに似た宇宙人の名前。
ハットリくんの「ニンニン」は堀絢子さんのアドリブ?
実はこの「忍者ハットリくん」決めゼリフは堀絢子さんが「忍者ハットリくん」を演じた時に面白いんじゃないかと思い、語尾に「ニンニン」のアドリブを入れたことがきっかけなんです。
それから派生して「ニンともかんとも」や「ニントトット、ニンニン」といったアドリブまで生まれたそうです。
台本には全く書いていなかったです。そのうち劇場版のタイトルに「ニンニン」という言葉も使われるようになり、今ではハットリくんの決めゼリフになっています。
こんなエピソードがあって忍者ハットリくんの「ニンニン」が決めゼリフになったんですね。
素敵なお話ですね「にんにん」 笑
堀絢子さんはひとり芝居「朝ちゃん」がライフワーク
堀絢子さんは原爆で亡くされた父親の年令の40歳を超えるときに、なにか自分にできることをしなくてはいけないんじゃないかと思いがあったそうです。
原爆をテーマにした本を読んだりして、偶然出会ったのが山本真理子さんの『広島の姉妹』『広島の母たち』という作品でした。
作者の山本さんに直談判し「作品をひとり芝居に使わせてほしい」とお願いしたところ、快く聞き届けてくださって、生まれたのが広島を舞台にした反戦反核を訴える『ひとり芝居「朝ちゃん」』。
一人芝居「朝ちゃん」の公演は自主公演やほとんどは教育団体や市町村、小・中学校からの依頼を受けての公演です。
観客の子供たちも最初は暗いお話なんで見たくないというようにつまらなさそうな顔をしているんですが、お芝居が終わった時には正座して真剣に見ているそうです。
四国での公演時は20代の女性から「毎日辛いことばかりでつまらなくて死にたいと思っていたんだそうですが、堀絢子さんの一人芝居をきっかけに「一所懸命に生きていきます」と握手を求められたそうです。
独り芝居「朝ちゃん」、広島で原爆の被害にあった朝ちゃんを助けようとする家族と友人の物語を通して反戦反核をうったえる独り芝居。
堀絢子さんは反戦(半千)500回の公演を目指して「朝ちゃん」の公演を始めて30年余り、254回を超えて公演をしています。
しかし堀さんの凄さはこれだけではありません。この一人芝居を続けるため、30年余り毎日500回の腹筋と週3,4回はジムに通ってマシントレーニングをしていたそうです。
言葉にならないくらい凄いことだと感動でいっぱいです。
堀絢子さん御年89歳。
声優・堀絢子さんを偲ぶ声
堀絢子さんは「忍者ハットリくん」を始め「お化けのQ太郎」「チンプイ」や多くのキャラクターの声を演じられました。
声優・堀絢子さんを偲ぶ多くのファンの声をお届けします。
堀絢子さんの「忍者ハットリくん」や「お化けのQ太郎」「ムーミン」「チンプイ」
数えきれないキャラクターを声で演じてこられました。
堀絢子さんの最後は台本を見ながら、ゆったりとした気分でお酒を嗜んでいたようです。
きっと眠るように静かに最後を迎えたと思います。
声優・堀絢子89歳声優人生まとめ
堀絢子(ほり じゅんこ)さんの父親は山口県下関市で開業医をしていた。太平戦争の真っ只中、軍医として広島に招集されてるが、広島に原子爆弾の投下され父親は被爆し40歳の若さで亡くなりました。
堀絢子さんは幼かったので父親の記憶はほとんどないが母親が父親の最期のことを涙ながら何度も話すのを聞いて育ったため堀絢子さんは子供ながらに「生き残った私が何かしなければ」との思いをもって育った。
母は娘の絢子さんに父の跡を継ぎ医者になってほしかったようだが、堀絢子さんは子供頃の夢を諦めきれず、アルバイトをしながら役者(声優)になる道を突き進んでいった。
結果、赤ちゃんから老婆役まで幅広く役をこなすことができる声優になり、誰からも愛される声優人生になりました。
堀絢子さんは声優の仕事の傍ら、ライフワークとして反戦反核を訴える『ひとり芝居「朝ちゃん」』の公演を全国どこへでも行きました。30年余り254回を超える公演を行う。
『ひとり芝居「朝ちゃん」』の公演を続けるために毎日500回の筋肉トレーニングと週3,4回ジムに通ってトレーニングマシーンなど健康管理を維持していた。
堀絢子さんは11月18日、眠るように静かに最後の時を迎えられました。享年89歳。
ありがとうございました。心より堀絢子さんのご冥福をお祈り申し上げます。
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